えべっさま、ようきてくれましたな           

 

 

武地秀実

 

 

 

 2011年3月11日に起こった東日本大震災。私は、西宮の苦楽園で取材に歩いていた。少し休もうと入ったカフェで、津波の映像を目の当たりにした。岩手の三陸海岸の街になだれ込む海水はまさに生きている怪物のように、見つけたものはすべて飲み込もうといたるところを探し求めるように見えた。これが、今起きていることなのか?嘘だ!テレビの向こうのドラマではないのかと思った。何もできない、ただ、助かってと画面を見ながら必死で祈るだけだった。

 

 それから1年半後の2012年10月、私は宮城県女川町の仮設住宅を回っていた。兵庫県西宮市で、「歌おう、笑おう、踊ろう」の頭文字をとって、「うわお!」というグループを作って、20人ほどが、町民たちに少しでも笑ってもらおうと西宮市が復興支援をしていた女川町にたどり着いたのだった。狂言とお笑いオペラがメインプログラムで、私はチームの事務局として参加したのだが、とにかく自己満足であろうと、仮設住宅でえびす人形を回したかったのだ。海に消えた命とえびすは同じものなのだと聞こえてくるからだ。

 

 公民館のような集会所が作られ、そこで演じてもらいたいということで、皆は衣装をつけ出演の準備に追われていた。私は「仮設の人に宣伝してきます」と言い、えびす人形を抱いて仮設に向かった。

 

関西ならば残暑もきつい10月上旬だが、肌寒く、ひとっこひとり外を歩いていなかった。なんとも言えない重苦しい寂しさが漂っていた。ガラス越しに見えた部屋の中には、いくつもの遺影が置かれている。どうやって暮らしているのだろう、何を思い何を糧に生きているのだろう、希望はあるのだろうか・・私はここで何ができるのか?自問自答しながら一人で歩いた。えびす人形に片手を入れても、えびすさまは微動だにしなかった。

どうする?空を見上げながら自問自答。そのとき、私の片手は動き、大きな声が腹の底から出てきた。「西宮の大神、えびすが舞い降りた、舞い降りた。西宮の大神 えびすが舞い降りた、舞い降りた・・」夢中でその言葉だけを叫びながらえびすさまを高く上げて私は回していた。

 

 仮設住宅をぐるぐると回った。「えびすが舞い降りた」の次の言葉が出てこない。いつもの「福を配りにやってきた」とは声に出ないのだ。しばらくして、仮設住宅のある家の玄関が開いた。「えべっさまがやってきたのか?」おばあさんが、私を見つけて駆けつけてきたのだ。思わず、振り向くと、私は涙がこみ上げて声がでない。おばあさんは「おおえべっさんじゃ」と言って人形と私を抱きかかえた。「私の父ちゃんは漁師でな、大漁のときはえべっさまがやってきたんじゃと言うて、いつも大きな声で喜んだもんじゃった。いつもえべっさまに手を合わせて漁にでたんじゃ。父ちゃんは帰ってこん。私をおいて海の中に行ってしもうたわ。もう、えべっさまと一緒になっとるんかな。それなら嬉しい。ようきてくれましたな」と、言うて涙を流して何度も何度もえびす人形を撫でられた。私は何も言えず、ただ寄り添っているだけだった。「おばあちゃん、もう少ししたらえびす舞をするから集会所にきてね」と、やっと声に出して笑って握手をすることができた。

 

傀儡子は、産土の神に捧げる舞を舞い、歌い、祈りを捧げ、神の来訪の物語を人々に伝えてきた。声や舞い踊る身体は、この世に風穴のごとき「場」を開いていった。風穴から神がやって来る。そして、死者たちも還ってくる。

笑えないときにも笑い、舞い歌い語ることで、目に見えぬ、耳に聞こえぬモノたちを笑いの中に抱いていく。そして人々の心を平らにして新たに始まる。

私は、お囃子もなく、えびす人形だけで一人歌い語り舞った。えびすさまと一体となって私は舞った。

 

歌おう、笑おう、踊ろう・・

風穴をあけ、場を開こう・・と。  

 

                                                                               


 

 

ぬいぐるみ

 

                大谷眞砂子

 

 

今日、久しぶりに「クマさん」に会ったよ。

あなたの右腕にしっかり抱えられて、左利きのあなたが、小さな左手で愛おしそうに頭をポンポンしていた「クマさん」。

 

ある日、息せき切って帰ってきたあなたは、オシッコをぽたぽた零しながらトイレに駆けこんだ。

「こんなところにオシッコまいてどうするの!」と私が言葉で追いかけると、

――あのなぁ、オシッコの花が咲きます

ドアを開けたまま、笑っていた幼いころのあなた。

そのあと「クマさん」の頭をポンポンしながら

――もうちょっと早くかえらなあかんやろ、もれてしまうやろ

と諭していた。

いつだろう、あなたが「クマさん」を失ったのは。

 

今日、会った「クマさん」は、あなたの「クマさん」より大きそうだし、顔も少し違っている。この「クマさん」は、烈しい波と優しい波をくぐってきた。

何を見たのだろう?

漂いながら、うつくしい空も見たのか。

ぬいぐるみだから、目を閉じることができないから、多くを見たのだろう。

 

だから、私はほっとしたんだと思う。

見てしまったものがもつかなしさのそばで、息がつける感じ、安心してあなたと楽しかったことを思い出してもいいという感じ。

それから夢をみたよ。白日夢。

あなたが楽しそうにぷかぷかしていて、気づいたら私もこちらでぷかぷかしている。

あなたと私の世界はそんなに違っていなくて、時にかすかに指が触れるていどには近くにいる、逢えないのではなく逢いかたがかわるだけと、そんなぷかぷかだった。

30歳を前にもう歳をとらないあなたと、律儀に歳を重ねる私。

それもそんなに違いはないのだとしても、私の手はすっかりおばあさんの手になってしまった。

 


電柱  座主果林

 

 

 

 

 

子どもの頃は、電柱を一本一本見上げながら歩いていた。ここからは三丁目。あの電柱には歯医者の広告。そうやって歩いていれば、どこまでも団地が並んでいても町に飲みこまれることがなかった。ある時、「今度暮らすところだよ」と次の町に連れられていった。

高い煙突はお風呂屋さん、砂利道の突き当たりの丸いポスト、秘密基地になりそうな空き地。見慣れない町でも、電柱は同じように立ち並んでいた。日暮れをむかえる頃、錆びた遊具の公園の隅で木製の電柱を見つけた。ほかの電柱たちは電線で繋がり真っ白い灯りをつけて並んでいたが、列から外れて一本だけ橙色の灯りをともしていた。いつの間にかその灯りも点かなくなり、どんどん草に埋もれて元電柱になっても、ポツンと立っていた。また次の町に引っ越してしばらくして、あの町は再開発で丸ごとなくなったと伝え聞いたけれど、あの元電柱は最後まで立っていたのかなあ。


呼び鈴

                平井梨絵

 

 

その集落の築50年ほどの平家には呼び鈴が付いていたが、移り住んで半年も経たないうちに音が鳴らないことに気づいた。入居前には鳴ることを確認していたはずなので、いつから壊れたのか分からなかったが、大家さんに修理を相談するのが億劫でそのままにしていた。配達の人が不在と勘違いして帰ることが続き、とりあえず呼び鈴を外すことにした。一人暮らしには十分だが風呂台所と二間の小さな家では小さな声でもわかる。でも配達の人たちは大きな声で名前を呼び、近所のおじさんおばさんや友人の声もよく通る、のでこちらも自然と大きな声で出る。声なく扉をどんどん叩かれるとびっくりしたが、それはごくごく稀で、結局は呼び鈴がなくても困ることはなくそのままになった。地元の人の「●●さんこんにちわあー」「こんばんわあー」の響きのイントネーションが心地よく、自分も近づきたいと思ったが、いつも変な標準語になってしまった。集落の人は呼び鈴があってもそれを使うことはあまりなかったようだ。近所に訪れる人たちの名前を呼ぶ声がよく聞こえたから。

 

 

次に引っ越した町中の家に呼び鈴はなかったが、周囲との距離感が変わったこともありしばらくして呼び鈴を付けた。あの声を聞く機会がなくなったのは、やはりさびしい。



足踏みミシン

           20220314 ぶろ子

 

 

 

 

 

 

来る日も来る日もミシンを踏んで、私は近所の漁師の奥さんや子供たちの洋服を縫い続けた。夫は逞しい漁師で小さいながらも船を持ち、来る日も来る日も漁に出た。裕福とはいえないが幸せな生活だった。

 

足踏みミシンはキコギコとリズムを刻み、小さな船もポンポンとリズムを刻む。夫は海で、私も布の海の中を、リズムを刻みながら一日を暮らした。

 

あそこの嫁さんは都会から嫁いで来たので作る服はどこかモダンだと、近隣で少しは評判だった。服の注文は絶えることはなく、家計の足しとなった。ミシンの仕事に疲れたとき、目を上げ、窓から青い海と空を見るのが好きだった。漁港には夫の船が泊まり、網の手入れをしながら時々家の方を向き、よく焼けた顔をほころばせていた。決して穏やかな日々だけではなかったし、夫の船がなかなか戻らず心配した夜もあった。

 

私たちに子供が生まれ、やがて孫もできた。そして私は注文の服以外にも子や孫たちの服も拵えた。忙しかったが、それは私の生きがいでもあった。

 

子や孫が私たちの金婚式の祝いに電気で動くミシンを買ってあげたいと言ってくれたが私は断った。ギコギコと足でリズムを刻むこのミシンが好きなのだ。私の人生そのものだから。そして時々夫が油を差してくれるから。

 

今もほら聞こえるでしょう、ギコギコ、ギコギコ、リズムを刻む足踏みミシンの音が。私の側には仕事を終えたまだまだ逞しい姿の夫がいて、子供や孫に囲まれながら、ギコギコ、足踏みを続けます。きれいな布の海の中で。来る日も来る日も。私は幸せに満たされているのです。

 


足踏みミシン   高津 始

 

 

 

ミシンで思い出すのは母親のこと。家は貧しかった。ぼくは野球が好きで、革のミットが欲しかったけど、高くて買えなかった。だけど、テント用の生地で作ったミットも流行っていった。生地を緑色に染めて。ぼくは野球がけっこううまかった。母親がぼくにもミシンでミットを作ってくれた。胸が熱くなるくらいうれしかった。ところが、綿がはいりすぎて、ボールが中に収まらず跳ね返ってしまい、ミットの役目を果たさなかった。結局、飾り物になってしもうた。ミシンを見るとそのことを思い出します。もう70年も前のこと。


8ミリフィルム

        

井場 宏

 

 

この8ミリフィルムにいったいどんなものが映っていたのか知るよしもないんですけど、私も高校生の頃に文化祭で、8ミリ映画を撮ったことがありまして。その時の映像というのは、記録としてずっと残るものではあるんですけど、いまはそれが見えなくなっています。結局、この映っているものが、永遠にわからなくなってしまったというのが、すごく悲しいと思いますし、こんな泥だらけになってしまった8ミリフィルムが悲しいなと思いました。


 

 

 

タイル片    手雀

 

 

 

 

 

 

割れたタイル壁を見て、そこにタイルを埋めた人のことを思った。職人が魂を込めて作ったのだと思う。作った人がこれを見たら、せっかく作ったのに、と感じるか、と想像した。

タイル貼り職人は減っていると聞いたことがある。作られたものは偶然の出来事で流され、文化も流れていく。