「椅子」
学校の脚の曲がった椅子。あのときの子供たちは、どうしているのだろう。ふと26年前の事が蘇る。阪神大震災の時。私の住む大阪でも、かつて体験したことのないほどの大きさで、この揺れで家が壊れると感じて、恐怖が身体に刻み込まれてしまった。どんな些細な揺れでも、その後に続く大きな揺れを想像して身体がこわばるのは、経験したものにとって共通のものだと思う。
だが、家は無事だった。しばらくして、神戸の知り合いの家、ここは2階で寝ていた娘さんがベッドごと家の前の道に滑り出されたという。その家の前の公園に炊き出しの支援に行った。当時は公園に、避難している人もいた。阪急電車の京都線に乗って十三で神戸線に乗り換える。びくともしていない大阪の街の景色をやり過ごしていくうちどんどん、沿線の家の様子が変わってくる。どこも崩れている。かつては家であったものが延々と続く光景が目に入る。
一緒に連れていた、5歳の子供が呟いた。「ほんとうに壊れてると思わんかった。」あれだけ毎日TVで放送されたものを見ていても、大きな家が屋根ごと崩れ落ちていることは、戦隊モノのようなフィクションので、どこか別世界だったのだろう。もちろん大人の私にも衝撃で。そこに立つことは、そういうことで、現実に出会うことは、そういうことなのだと感じる。
こどもたちといえば、東日本震災の時、南三陸の二つの浜の人たちが入る仮設住宅で、出会った子たちを思い出す。
一人は、一時的に神戸に避難していて戻ってきた子。避難先が合わなかったのだろう。あまりにも大きな体験をしてしまった子供が、かつて震災があった神戸でも経験していない同じ年頃の子供たちと共有できるものは少なかったようだ。もう一人は、いつも小さなリュックを背中に背負っている子供。彼は、自分の大切なものをリュックに入れて、片時も離さず持って遊んでいる。失ったものが多すぎて、もう何一つ失いたくない。心の不安がいつもあると指導員から聞く。
さらに、爪先立ちで奇妙に歩く子供にも会った。ずっとあんな歩き方で・・・。不安定な心理状態だからか、地に足を付けないのだろうと。
また南相馬の仮設で出会った幼い女の子。 家族が津波でいなくなったと教えてくれた。
あの子たちは、どうしてるのだろう。 経験した子供とそうでない子供。そこに立った人間と立たなかった人間。その傷の深さを容易には想像すできない。
当事者にはなれない外部の支援者は、簡単に共感することもできない。でも。でもね、経験していないから、手伝えるんだよ。アカの他人だから、どんな話も聴ける。やれることもあるんだよと、自分に言い聞かせて、震災の後一年に一度は、尋ねて行った。しまいには、知り合いのところに遊びに行くように。
「トランペット」
楽器を見ると、やっぱり災害にあったピアノのことを思い出す。
洪水の時も、津波の時も、阪神の地震の時も、壊れたピアノの写真は必ず目にする。水没したピアノを再生する話も出てくる。けれど私が体験したのは、持ち主もそのピアノも知っているそんなピアノ達との記憶だ。
震災以前は阪神間にピアノ調律の顧客は、まあまああった。ある人は、ピアノで落ちてきた天井が支えられてできたその隙間で、命を取り留めた。ある人は、倒れてきた縦型ピアノで怪我をした。阪神大震災というのは、火事か、家や家財の下敷きになった圧迫による被害、クラッシュ症候群が多い。
ある人から壊れた家からピアノを出したいと、電話があった。 道路もボコボコ、崩れて足場も悪い家からピアノが出せるだろうか? 運送屋さんになんとかして欲しいと頼んだ。出せたら頼むと。 そのピアノは、雨風をかろうじてしのげる倉庫に無事に出すことができた。一方である人は、ピアノの上に天井が落ちており、出すことができなかった。毎年調律に行く時は、最近子供が弾いてないのよ。と聞いていたピアノ。でも家の取り壊しが決まった時、ピアノを失うことを悲しんだのは、その子供だった。あまりにも一度に多くのものを失うこと。想像することは難しいけど。
ピアノは、地震で凶器のようにもなった。あるマンションでは、部屋中を走り、あるグランドピアノの足は、天井を突き抜け、揺れで壁を壊して穴を開け。ピアノの上に色んなものが落ちて傷だらけになったピアノもまだ調律している。あまりにもいろんないろんなことがあった。ピアノを手放す人が一時に多くなり、大阪のピアノ倉庫は満杯になった。
阪神大震災で、障害を負った人たちは震災障害者と呼ばれている。クラッシュ症候群は、長時間体の一部が瓦礫で圧迫された後救出されたことで、圧迫から解放されて数時間後ほどから、筋肉の圧迫壊死状態から、解放されることで血流とともに毒素が体に蓄積し、全身に広がり、心臓の機能が悪化し、死に至ったり、腎不全になる人も多い。直後に透析治療を受けて命を取り止めた人も多い。圧迫された部分がずっと障害として残ることもあり、多くの人が今も苦しんでいる。
障害を負っても、「命があって良かったやん」と言われるのが辛いねん。と震災で障害を負ったことをわかって欲しい。という話を当事者からお聞きした。
携帯
あの日 大丈夫? ってメールが届いた
私はそれを見て スマホの電源を 切った
大丈夫なわけなんてない
説明なんてできない
何が起こっているのか
わからない
あの日から
逃げて 逃げて 何度も 逃げてきた
たどり着いたら そこは別の世界だった
忘れたフリして ここで生きてきた
ここに来たら
ヒナンシャ
帰る家もないのに
どこに居ても
ヒナンシャ 私の居場所はどこ
語りたくないことだらけだけど
忘れては
ほしくないな
傷口は ふさがらず
開いたままだけど
今日初めて
はなしました
ここに来たら
ヒナンシャ
帰る家もないのに
どこに居ても
ヒナンシャ
私の居場所は
今は ここ
2022.1東日本大震災で被災して、福島から大阪へきた人の言葉から